広田弘毅 ― 2023/08/02
広田弘毅は、1878年2月14日に生まれ、1948年12月23日午前零時20分に亡くなった。この23日に、広田と同期の吉田茂は、国会を解散した。
東京裁判で絞首刑を言い渡された。デス・バイ・ハンギング(票決は6対5)。
城山三郎は「落日燃ゆ」で、広田弘毅の生涯を克明に描いた、という。
東京裁判で絞首刑を宣告されたA級戦犯のうちただ一人の文官。
相思相愛の妻静子(シズコ)の自害も強烈である。
死刑囚の板垣と木村が、死刑前にバンザイをするのに広田はマンザイといった。
広田弘毅への関心が一気に増したこの「落日に燃ゆ」であった。
この文庫本から一文を引用する。
和平交渉の望みは消えた。陸軍は、「万歳」の声をあげながら、南は広東めざし、また奥地の漢口めがけて、進撃を続けていく。止めようもない大日本帝国の落日の始まりである。(p296)
東京裁判で絞首刑を言い渡された。デス・バイ・ハンギング(票決は6対5)。
城山三郎は「落日燃ゆ」で、広田弘毅の生涯を克明に描いた、という。
東京裁判で絞首刑を宣告されたA級戦犯のうちただ一人の文官。
相思相愛の妻静子(シズコ)の自害も強烈である。
死刑囚の板垣と木村が、死刑前にバンザイをするのに広田はマンザイといった。
広田弘毅への関心が一気に増したこの「落日に燃ゆ」であった。
この文庫本から一文を引用する。
和平交渉の望みは消えた。陸軍は、「万歳」の声をあげながら、南は広東めざし、また奥地の漢口めがけて、進撃を続けていく。止めようもない大日本帝国の落日の始まりである。(p296)
最近のコメント